「本能寺」といえば「信長」、
「信長」といえば
「本能寺」と言われるほどに
本能寺と織田信長とは
切っても切れない縁で
結ばれている

大本山本能寺

 本能寺は日隆聖人によって応永二十二年(1415年) 、「本応寺」という寺号で油小路高辻と五条坊門の間の地に創建されました。法華宗(本門流)の大本山です。

織田信長が本能寺に宿泊した理由

 織田信長は乱世が生んだ一代の英傑であり「天下布武」、武をもって乱世を統一しようと志した武将であったと伝えられています。
 信長が本能寺に宿を定めた大きな理由に、「鉄砲」を確保する目的があったと言われています。本能寺は寛正三年(1462年)の頃から南方種子島布教を始め、種子島などに法華宗の多くのお寺が建てられました。そのお寺を使って鉄砲を入手し、鉄砲隊戦術によって天下人として台頭する契機となりました。

本能寺の変

 天正十年(1582年)、信長は豊臣秀吉に毛利攻めを命じ、手勢わずか数十名を従えて本能寺に止宿。そして信長は秀吉への援軍を明智光秀に命じましたが、光秀は六月一日居城の亀岡城を出、水色桔梗の九本旗をひるがえし、一万七百余の軍勢を率いて同夜、老の坂にさしかかると、「わが敵は正に本能寺にあり」と全軍に告げ、京都に向かいます。桂川を渡り、暁を破る軍鼓のとどろきとともに、本能寺に攻め入ります。 光秀一万の軍勢に攻め込まれた信長は自ら本堂に火を放ち自刃しました。本能寺の大伽藍も焼け落ち、信長の全国統一の雄図は一朝の夢と消えました。

現在の地への移転

 本能寺の変後、豊臣秀吉の都市計画に基づき、1587年現在地に移転されました。
現在地から約1.2㎞南西方向の油小路蛸薬師にある跡地には、現在では堀川高校や老人福祉施設になっており、石碑が立っています。