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本能寺の変遷

1415年     日隆聖人が油小路高辻に本応寺を建立(第一の建立)
1418年     妙本寺に破却される。
1429年     小袖屋宗句の援助により内野に本応寺を建立(第二の建立)
1433年     如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立(第三の建立)
1536年     天文法乱にて延暦寺の焼き討ちに遭う。
1545年     日承聖人が四条西洞院に建立(第四の建立)
1582年     本能寺の変にて焼失。信長公自害
1592年     秀吉の命にて現在地に移転、日衍聖人建立(第五の建立)
1788年     天明の大火で焼失
1840年     日恩聖人再建(第六の建立)
1864年     蛤御門の変にて焼失
1928年     現在の本堂再建(第七の建立)


本能寺の変

「本能寺」といえば「信長」、「信長」といえば「本能寺」と言われるほどに本能寺と織田信長とは切っても切れない縁で結ばれている。天正十年(1582年)、信長は秀吉に毛利攻めを命じ、本隊の信長も上洛、同年五月二十九日、手勢わずか数十人を従えて本能寺に止宿、長男信忠も妙覚寺に入って待機した。そして信長は毛利攻めにてこずる秀吉への援軍を明智光秀に命じたのであるが、光秀は六月一日、朝もや煙る居城の亀岡城を出、水色桔梗の九本旗をひるがえし、一万七百余りの軍勢を率いて同日夜、老の坂にさしかかると、「わが敵は正に本能寺にあり」と全軍に告げ、西に向かうべき道を東に折れ、京都に向かった。そして桂川をわたり、暁を破る軍鼓のとどろきと共に本能寺に攻め入ったのである。これに先立って、信長が本能寺に入る前夜、愛宕山で連歌の会が催されたとき、光秀は「とき(土岐)は今 天が下しる(天下統一) 五月かな」と呼んで茶人・里村紹巴(しょうは)に謀反の心を覚えられたという有名なエピソードがある。
光秀一万の軍勢に攻め込まれた信長は何しろ多勢に無勢、防ぎようもなく、自ら本堂に火をつけて自刃した。本能寺の大伽藍(だいがらん:お寺の大きな建物)も焼け落ち、信長の全国統一を雄図は一朝の夢と消え、信忠も二条城に討ち死にした。


本能寺の歴史は、応永二十二年(1415年)日隆聖人によって油小路高辻と五条坊門の間に創建(当時は本応寺と号す。)されて以来、地を転ずること四度、その間、伽藍は破却されること二度(妙本寺教徒による法難、および比叡山の山法師による「天文の法乱」、兵乱にあうこと二度(本能寺の変、蛤御門の変)、類焼また二度(天明、天治の大火と合計六回焼失している歴史がある。












本能寺は日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山です。
本能寺は日隆聖人を御改竄と仰ぎ『法華経』の根本義と日蓮大聖人の真意を解き明かしお題目を唱えて信じ行ず大霊場であります。


本能寺は1415年〜1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年〜現在まで本 寺を使用している。
その理由は、【本門八品相応能弘之寺】の〔(本)門八品相(応)(能)弘之寺〕の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。

 













現在(能)という字を●に替えて使用しているが、これは六度も火災に遭遇したのでヒ(火)を嫌い、昭和三年(1928年)より●の字に替えたものである。本能寺は1415年(第一の建立)〜1864年(蛤御門の変)の四百五十年間に平均七十五年に一回、炎上した勘定になる。七十五年という歳月はちょうど諸堂宇が完備するに要する年月にあたるわけで、つまり本能寺は、寺塔がようやく復興なった頃、次の災厄によって消失するという繰り返しを重ねたことになる。奈良の長谷寺が百五十年ごとに炎上したのにくらべ、およそ倍の頻度である。 ※●はにくづきに去

 
 


御開山の日隆聖人は応永二十二年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に勤めたが志を遂げられず同寺を去った。そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し日蓮大聖人の念願である人々の口に『南無妙法蓮華経』を唱えさせるべく教化を始めた。